Thread journey / 糸の旅
-家で糸を巻いて旅に出よう-
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「窓が包む世界」
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「窓が包む世界」
「私の土」投稿こだま
藝大美術館
「私の土」のワークショップに参加した方から送られてきた、土やその土地の写真のデータと、それにまつわるテキストを掲載していきます。
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佐藤寧々(1120199)
千葉県千葉市 浜田緑地にて
「今年もこの季節が」
小学生の頃、カブトムシを飼っていた。
私は虫捕りが大好きだったので、この季節になると夜外に出かけては昆虫採集をしていた。
カブトムシは短命である。一夏でその一生を終えてしまう。
夏の終わり、大事に飼っていた彼らは死んだ。
その時その亡骸を埋めたのはこの場所である。
土に還った彼らと、これから地上に出てくる別の彼らと。

『 卵 』
雀が死んでいたので埋めてやったことがある。ふと思い出したときにその場所を掘り返すと何も残っていなかった−
また幼少、よく自宅の狭い庭で遊んだ。生き物に詳しかった友人と庭の土を掘り返していると何かの卵をみつけた。特撮が好きだった私は、すぐ怪獣を想起した。卵は友人が持ち帰り、しばらくして偶然孵化したというので見に行くとカナヘビだった。現在も脈々と受け継がれているのか、まれにその庭でカナヘビをみかける。
土は「還る」ものであると同時に、生命を育むものでもあり、その代謝の中に不気味で神秘的な存在があった。

母が大切にしている庭の土。
この庭で今年亡くなった愛犬の葬儀をした。

東京で育ったの僕は人生で土には触れることはほとんどなかった。アスファルトで舗装された道。人工芝の校庭。去勢された公園(そういえば、砂場がある公園でも汚いと言われてあそばせてもらえなかった。)...
それでも止むに止まれぬ理由から、僕は土を探しに行った。けれどそもそもこの東京のど真ん中に、誰のものでもない土なんてあるのだろうか。記憶や魂が沁みついた土なんてあるのだろうか。そう思った時に途端に息苦しくなって、100均で土を買ってきた。無機質で冷たいこの土に、なんとも言えないシンパシーを感じた。

地面を淡々と掘って土を採っていると、カラフルな帽子をかぶった保育園児が「何してんの?」「やってもいい?」と言いながらワラワラ集まってきた。「すみません、スコップ借りてもいいですか?」と敬語を使う殊勝な子もいる。
「お姉ちゃん一人で掘るの寂しいから、皆が手伝ってくれると嬉しいな」と言うと、途端にスコップの争奪戦になった。必死に宥めすかして、「順番こね」と言いながら、道具で怪我をしないように見守る。
彼らは聞いてもないのに勝手に名乗りだし、「〇〇ちゃんね、昨日〇〇ママのことお手伝いしたの」「最近テレビばっかり見てるよ」「次やりたい!貸して!」「地面って固いんだね」「土ってショベルカーでできてるの?」「この土何にするの?」「お姉ちゃん何でメガネしてるの?」と、自分の私生活から割と鋭い質問まで、私に浴びせるように一気に聞かせた。私は答えられることに答え、意味不明なものには「そうなんだあ、それでどうしたの?」と相槌をうちながら、コミュニケーションを取っていく。
聞いたことのない保育園の子供たちだった。3歳〜5歳までの子供たちが、メロン組バナナ組と果物の名前で分けられていた。別のクラスの子がきても特に気にしていない様子だった。順番を守りたがらない子も、妙に達観している子も、無邪気に構って欲しがる子もいた。ミックスの容姿の子もいた。少し人見知りで、「やる?」と声をかけると「どうでもいい」と言うのだが、それでも当然の顔をして手伝ってくれた。何の不自由なく日本語を操り、クラスに馴染んでいた。当たり前にいろんな子供たちがいて、本人たちもそれが当たり前だと思っているようだった。
成人しているのに平日の日中から公園で土いじりをしている、そのことを恥ずかしいとは思わないが、それでも周囲の大人の目線は突き刺さる。そういうしがらみ、常識、のようなものを、子供たちは平気な顔で乗り越えてくる。その簡単さ、あっけなさに救われている。彼らが掘ってくれた土がとても尊いもののように思えた。
帰路について、私は愕然とした。自宅の、道路を挟んだ隣のビルに入っている保育園。その名前。
私はこの土を「かみさまの小径、その拾い物」だ。大人になると何も見なくなるのだ、きっと。かみさまのような子供達。彼らは寄り道をしている。だから何も見逃さないし、誰も分け隔てない。この土は、かみさまのお裾分けである。

取ってきた土…自宅の花壇(元庭)の死んでしまったユスラウメの根本の土
最も思い出に残っているエピソードは、私の生まれた年に植えたユスラウメが、とうとう寿命を迎えてしまったこと。私の生家にはそこそこ広い庭があって、幼い頃から共に過ごしてきた。遊んで汗を流し、転んでは血を染み込ませ、涙もきっと混ざっている。命もたくさん埋めた。金魚、ウナギ、昆虫類、きっと私達が埋めた以外にも多くの命が土に還ったのだろう。ユスラウメは、毎年赤くて甘酸っぱい実をたわわに実らせ、私達を楽しませてくれた。数年後、家を建て直すことになり、庭のほとんどは駐車場になってしまった。何もかもが新しくされていく中で、ウメとユスラウメ(とその辺りの土)だけが花壇として残された。それからまた月日が経ち、私が受験を迎え精神的に追い詰められていくと、呼応するかのようにユスラウメはみるみる弱っていった。そして合格を知った春、庭師さんからもう死んでいると告げられた。私はとても悲しかった。土を採取する為に久しぶりに様子を見に行くと、あおあおと茂る雑草の中で、細い切り株が佇んでいた。あんなに大きくて、上の方の実は梯子を使わないと届かなかったのに。なんとも言えない気持ちになった。土はじっとりと湿っていて、ときおり混じる名も知らぬ緑の葉が、異様にいきいきと見えて憎らしかった。昔はこの時期になると必ず見かけた、あの大きなカエルは今どうしているのだろうか。

今年の3月末に藝心寮に上京してきた。そのとき佐賀県から車で東京まで来ました。2日ほどかけて来たので、終盤、神奈川辺りで寝てしまい、次に起きたときにはもうすでに藝心寮の裏に着いていました。初めて藝心寮に来た場所が正面からではなく裏だったことが東京に来て最初の印象的な出来事でした。

私はつい此の間、上京した。これは、引っ越してきた建物の敷地内にあった土である。この街には特に思い出はない。この土にももちろん思い出はない。「どの土を送ろうか。」と一度立ち止まって考えたとき、この土に内在する、私が一切知らない思い出やこの街の歴史の存在に気付いた。土を触りながら、それらを味わってみた。
知らない人や自然が埋めたタイムカプセルを勝手に掘り起こしているような感覚だった。このプロジェクトのタイトルにあるのは「私の土」。この "知らないタイムカプセル" を、「私の」と呼んでもいいのか?と疑問に思った。しかし私はここに引っ越したということで、私はこの土の地に属したということになる。計り知れないこの土に含まれた数々の物語に想いを馳せながら(しかし、想いを馳せることは簡単ではない)、私はこの土を掘り起こした。

わたしには2つの実家があります。今住んでいる家と、幼少期に暮らした家です。特に後者は私の故郷です。昨年、家庭の事情で故郷の実家を取り壊しました。取り壊してもなお、私の中に実家は二つあります。今回の土は少量ですが故郷の土も混ぜました。

通っていた高校の校舎裏の土です。私にとって高校は遊園地でした。
校舎裏で肉を焼いたこと。
文化祭を抜け出して海に行ったこと。
ベニヤ板を 敷き詰めて絵を描いたこと。
すべてが無鉄砲で無敵でした。今もそうありたいと思っています。

この階段を登った場所からは、大好きな街が一望できた。昔に比べ家々が建ってしまっても、わずかに残るそこへの小道から見える景色が、何度も、すっきりしない気持ちを洗い流してくれた。家族と一緒に元旦の初日の出を見ることもあった。色々と、転勤で街を転々としたけれど、ここに今、暮らせている喜び。

幼い頃から訪れていた地元の公園。誰が呼んだわけでもなく、自然とみんなが集まり、サッカーをしていた中一の春の日が最も印象に残っているエピソード。また、この公園を取り囲む街全体がとても好きだ。